“剥洋葱”式的忏悔
【来源:新民周刊】 撰稿:宋明炜
最近,德国作家君特·格拉斯在回忆录《剥洋葱》中承认曾参加“党卫军”的事引发了轩然大波。格拉斯是当代欧洲重要的反纳粹人士,“但泽三部曲”既是着眼于个人心灵发展的成长小说,也是描绘纳粹德国精神历程的历史反思巨著。而且格拉斯更积极地参与到欧洲政治生活之中,曾为德国总理布兰德撰写多篇检讨德国犹太政策的讲演稿。批评者认为,有意隐瞒加入“党卫军”的过去,给格拉斯一向标榜的反纳粹立场投上了阴影。格拉斯本人的答辩是:“只有现在,当我已经垂垂老矣,我才找到恰当的形式在一个更广泛的背景下谈论这件事。”
“德国人的思考方式不是政治的,而是悲剧式的、神话式的、英雄式的。”这是托马斯·曼针对包括自己在内的德国人文主义知识分子的描绘,这个描绘也可应用在格拉斯的身上。但是在二战之后,像托马斯·曼那样站在人文主义立场上反对纳粹的那种悲剧式的精神气质从德国知识界中消失了,代之而来的是一种看似理性实则偏激的政治意识,其背后的意识形态逐渐显露为统摄着今日美国社会(及其影响范围)的保守主义思想。尤其在最近二十多年间,是一种善恶对立、非此即彼的政治正确性在支配着德国的忏悔话语。对格拉斯大加指责的菲斯特(《希特勒传》的作者),本人也新著有一部回忆录,反省他的纳粹经历,书名是“不是我”,言下之意是说:那一场政治灾难都可归咎于希特勒和他的邪恶政治,而作为“天真的年轻人”的菲斯特,只是茫然无知地被席卷其间。菲斯特的忏悔是政治性的,他通过这个忏悔认同了政治正确的新意识形态,并以此让度了自己的责任。但格拉斯的忏悔建立在主体自觉之上,那个在书中时而用第三人称描述的年轻的格拉斯,不是一个“茫然无知”的人,而是一个“有信仰的人”;并且格拉斯相信,加入到纳粹德国及其意识形态的建设事业中的,不只是那些天真汉们,而更主要地是受到了良好教育、有思想、有主体性的德国人;更为重要的是,那个被“妖魔化”的纳粹德国的精神世界中,也不是可以用意识形态一言以蔽之的。
格拉斯的姿态表明:真正的忏悔不是靠发表痛快的讲演就可以办得到的,而必须把自己整个的生命都放在天平之上;真正的反省不是在善恶、好坏之间做出简单取舍,而是要让一切价值都还原到历史的情境之中。尽管也许迟了六十年,但格拉斯作出了他发自个体心灵之内的忏悔,而且他的忏悔方式正如托马斯·曼所形容的那样——是悲剧式的、神话式的、英雄式的。这个判断的意义在于,格拉斯不顾及“政治正确性”,将自己的忏悔摆在了作为身处历史之中的个体思考者的主体位置上。这个位置也许在政治上“暧昧不明”,但也正是因此,格拉斯的充满内省性的文学自传重现了德国人的精神历史,后者具有的悲剧感不能以纯然理性的政治话语言尽,其所具有神话般的表象形式,也不是能够简单地用“非此即彼”的政治思维来加以批评的。
格拉斯的书名叫做“剥洋葱”,他对于个人和民族经验的回忆,即如“剥洋葱”的过程,痛苦而辛酸。那被层层剥落的历史的碎片,不断加强了一股令人难以面对的辛辣之味,它以无法言说的方式表达了历史带给个体的复杂感受。格拉斯在已经功成名就、迈入暮年的时候,敢于再次和读者分享他“剥洋葱”的痛苦和辛酸,而且他剥下的是自己的皮肉,这行为使他加入到人文思想史中那些最伟大的忏悔者的行列。
在另外一个意义上,“剥洋葱”的比喻凸现出了历史记忆的吊诡之处。那一层一层的剥落过程中可能有着意料不到的发现,呈现出许多被政治正确的意识形态所压抑的故事——比如格拉斯在小说《蟹行》中重现了装载着九千德国难民的“古斯洛夫”号被苏军炸沉的经过,这个几乎无一人生还的海难比“泰坦尼克”号遇难更为令人发指的地方是,它完全被人忘却了;而格拉斯在“剥洋葱”式的回忆中让这许多“被迫遗忘”的时刻重新获得了生命,包括德累斯顿的轰炸,纳粹德国的最后岁月,以及他作为纳粹信仰者的青春岁月。
ギュンター・グラス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1999年
受賞部門: ノーベル文学賞
ギュンター・グラス(Günter Grass, 1927年10月16日 - )はドイツの小説家、劇作家、版画家、彫刻家。
概要
ギュンター・グラスはダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)で生まれた。父はドイツ人の食料品店主、母は西スラヴ系少数民族のカシューブ人。当時、ヴェルサイユ条約によりドイツから切り離され、国際連盟の保護下に形式上独立国だったダンツィヒ自由市で、ドイツとポーランドをはじめとする様々な民族の間で育ったことが、その後のグラスの作品に大きく影響することになった。
15歳で労働奉仕団・空軍補助兵を勤め、17歳で武装親衛隊に入隊した後、敗戦を迎え、米軍捕虜収容所で半年間の捕虜生活を送る。その後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計をたてながら美術学校に通い、詩や戯曲なども書く。1958年には朗読による作家・批評家同士の作品発表の場「47年グループ」で才能を認められ、1959年発表の長編小説『ブリキの太鼓』で一躍有名作家となった。
作家・評論家とも活発な交友を持ち、グラスを高く評価した著名人にウーヴェ・ヨーンゾンやマルセル・ライヒ=ラニツキ、ハンス・ヨアヒム・シェートリヒなどがいる。
その作風は非現実的な奇怪さと、詳細なデータに裏付けられた現実性の両方が同居する特異なもので、作品の発表ごとに物議をかもしている。その一方で、ドイツ社会民主党の応援など積極的な政治活動でも知られている。1990年のドイツ再統一の時には、「ドイツは文化共同体としてのみ統一をもつべきだ」、と政治的統一には徹頭徹尾反対を唱えたことが大きな議論を呼んだ。1999年にはノーベル文学賞を受賞した。また2002年に起こったアメリカのアフガニスタン侵攻を「文明にふさわしくない」と述べ、武力をもって武力を制するやり方を批判した。
2006年8月12日、17歳の時にドレスデンでナチ党の武装親衛隊に入隊していた過去を自ら明らかにして大きな波紋を呼んだ(別項「武装親衛隊所属の告白」で後述)。
主な作品に、ダンツィヒ三部作といわれる『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』や、フェミニズムを料理と歴史から描いた『ひらめ』、20世紀の百年それぞれに一話ずつの短編を連ねた『私の一世紀』などがある。
『蟹の横歩き』(2002年)では、1945年の「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」を題材にし、同避難船上で生まれた父と、ネオナチであるその息子を描いている。現在リューベックに在住。
武装親衛隊所属の告白
78歳を迎えた2006年8月、最新作 Beim Häuten der Zwiebel (仮訳: 『玉葱の皮を剥きながら』)のなかに、第二次世界大戦の敗色の濃い1944年11月、満17歳でもって志願の許される武装親衛隊(陸軍・海軍・空軍は義務兵役年齢に達していないと入隊できない)[1]に入隊、基礎訓練の終了を待って1945年2月にドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団(en)に配属され、同年4月20日に負傷するまで戦車の砲手として務めた過去を数ページに渉り記述した自伝を出稿。同月11日付け日刊紙フランクフルター・アルゲマイネのインタビューで、この記述が事実と言明[2]。この言明はドイツ国内に大きな波紋を呼び、国際的に広く報道された[3]。大手ニュース週刊誌デア・シュピーゲルも同15日付で、米軍文書からその事実を確認[4]したと報道している。 自伝は注文が殺到したため、公刊予定を前倒しし同16日、ドイツ、オーストリア、スイスで出版され[5]たが、ポーランドの元大統領レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)[6]や与党法と正義が名誉市民の称号返上を求め[7]、グラスの出生地グダニスク市から説明要請を受けている[8]。またドイツのグラビア週刊誌シュテルン (Stern) は表紙にグラスの顔写真と親衛隊兵士のイラストを並べ「モラリストの失墜」と見出しを掲載。大衆紙ビルト (Bild) は「ノーベル賞を返還すべきだ」と主張するなどマスコミから強い批判を浴びた。
報道によれば、文壇、歴史学者や政界で賛否両論が飛び交ったとされているが、テレビ世論調査によれば七割近くはグラスへの信頼を表明[9]、主に批判側に回ったのは、グラスが一貫して支持し続けた社会民主党と対立するキリスト教民主同盟であったとする指摘[10]も多く、ニュース専門テレビ n-tv の世論調査によれば、ノーベル賞の自主返還すべきだとする意見も三割にとどまっている。
戦後60年以上の間、この過去の告白を拒み続けたグラスは、「それでもその重荷は、決して軽減されることはなかった」とその自伝に記し[11]、また、隠していたことを誤りであったと認めている[12]。
問題の火種となった自伝は8月下旬からベストセラーとなり出版部数は20万部を突破し、ポーランドでは批判が収束しているが[13]、グラスは、一連の抗議を懸念して12月に予定されていた「国家間の和解に貢献した人物」に与えられる「国際懸け橋賞」の受賞を辞退している[14]。取り沙汰された名誉市民の称号も、グダニスク市議会は剥奪の決議案を取り下げた。
呵呵,我也来用文字打败时间,有空再翻译。
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